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恥の多い生涯

自称トランスジェンダーによる自分史

恥の多い生涯を送って来ました。

とある男の話をしよう。

なんて、まるで正義の味方になりたかった男の物語でも始まりそうな書き出しで、私は私という人間の恥の多い生涯を書き綴ろうと思います。

トランスジェンダー。体と心の性別が一致しない人間。私がどうやらそれに該当するのかもしれないと思い始めたのは、つい最近のことです。

ある女性が職場でGIDをカミングアウトしたところ、嫌がらせや退職を強要され、うつ病になり自殺した。きっかけは、そんなニュースが目に入ってきた時のことでした。

なぜこのタイミングだったか。それは私がその時まで『GID性同一性障害)』という言葉を知識としては持ちながら、それ以上の興味を示していなかったためです。(これは後述しますがこの言葉に対して軽いトラウマもありました)

その日、私はいつもの癖でニュース記事から気になった単語、『性同一性障害』の部分を選択し右クリックすると、それをGoogle先生に投げつけました。

先生はすぐさまWikipedia先生に問題を丸投げしてきたので、私は仕方なく担当講師をくら替えし、検索結果のトップをクリックしました。そこには、こうありました。

 『性同一性(心の性)と身体的性別(身体の性、解剖学的性別)が一致しない状態』―性同一性障害 - Wikipedia

 もちろん、それはGIDについて私が知識として持っていた以上の情報ではありませんでした。しかし、私はなぜかそこで初めて、自分に抱いていた違和感の正体がそれに近しいものだと認めたのです。

えらくフワッとした認識のまま、断言を避ける理由は簡単です。私は医療機関でそれと診断されてはいないし、それを望んでもいないからです。少なくとも、現時点では。

世間のイメージでは『GID』というと、イコールで心の性別と体の性別を合わせるために手術を望む人たち、なのではないかと思います。同じく世間に生きる私も、抱いているのはそのイメージです。

だから私は、やっと自分の性別への違和感を認めると同時に、新たな違和感を発現させてしまったのでした。

「私はGIDではないだろ」

なんだか、『GID』という言葉の重みには耐えきれそうもなかったのです。それを自称することはとても罪深いようにも感じました。あくまで私にとっては。

そこで私は新たにキーワードを得ました。それが、『トランスジェンダー』でした。これなら私を受け入れてくれるような気がしました。よくよく意味を調べると、これもまた私にとって違和感のある言葉でしたが、そこはもう広義バンザイです。勝手に解釈を拡大して居座ってやります。

さて、なぜ私が『GID』という言葉にも『トランスジェンダー』という言葉にも違和感を抱いてしまうのか。それは私が、心の性別に体を合わせたいのではなく、体の性別に心を合わせたい人間だからです。

ここで話は唐突に、この記事のタイトル、そしてブログタイトルの由来に移ります。

恥の多い生涯。まだ終わっていない人生をそう結論づけるのは、これまでも、そしてこれからも、私にとって生きることは恥を重ねがけることでしかないからです。

こんな体験はあるでしょうか。私は体の性別が女であるため、それに適したトイレに入ります。そこで、私は列に並んでいた女性にこう言われるのです。

「ここ、女子トイレですよ」

いや、知ってますよ!

私は恥ずかしさで顔を熱くしながら、自分が女であることを相手に伝えなくてはなりません。もう地獄です。私は多分何も間違っていないはずなのに、ひどい過ちを犯している気分になります。男なのに女子トイレに入ってきた変態。周りにそう思われているのだと思うと、誰だって死にたくなりますよね。事実、心の性別でいうと全くその通りなところが、事態を勝手に深刻化させます。

または公衆浴場でのことです。私は受付でまず性別の確認をされます。こんなこと、あまりないですよね。普通、見ればわかりますよね。

「女性…でよろしいですか?」

首を傾げながらそう訪ねてくる受付の方に、私はまたも恥ずかしさで顔を熱くしながら、肯定しなくてはなりません。

もちろん、これには私にも原因があります。というか、私が原因でしかありません。私は髪型がショートで、服装はいわゆるボーイッシュなものを好んでいます。それが、見る人によっては男に見えてしまうのでしょう。

だからといって、私が男子トイレに入ったところで、きっとそこでは「ここ、男子トイレですよ」と当たり前の指摘されてしまうのです。公衆浴場で男湯に入るなんてもってのほかです。私はこのどっちつかずの存在であることが、毎日毎日、死にたくなるほどに恥ずかしいのです。

先程、自分は「体の性別に心を合わせたい人間」だと言い表しました。ならば、はやくそう行動すべきだと思いますよね。流行りのファッション雑誌を買って、流行りのメイクで顔面をコーティングし、トレンドのコーデで出掛ける。これは手術の必要ない、簡単にできる性別適合です。

しかし、私がそうはせず、男みたいな見た目でいることを好んでしまうのは、結局のところ自分を女だとは思えないからです。だってそうでしょう。自分が生まれてからずっと自認している性別を変えるなんて、脳に電極でもぶっ刺さして洗脳でもしないと無理ですよ。(そういう方向性の性別適合手術はないんですかね?)

朝、仕事に行く前にメイクをします。鏡に映った自分は、まるで女装しているようで酷く気持ちが悪く、恥ずかしくてたまらなくなります。(※女装が気持ち悪いのではなく、女装している自分がということです)

仕事着はスカートを履きます。そうして、どこからどう見ても女性の格好でいることは、安心感はあります。その時ばかりは、朝の混雑した駅のトイレ列に並んでも当たり前の指摘されることがないからです。ですが、そうして安心感を得た私のもとに、すぐさま違和感と不快感は駆けつけます。

私は服屋に行くと、レディースものよりもメンズものに心を奪われます。しかし私はそこに行きたくても行かない。だって、女がメンズものを着ることはおかしなことだから。「これ、メンズものですよ」なんて、レジの店員さんは、私が何よりも怖がる、当たり前の指摘をしてくるだろうから。(※最近はお洒落としてメンズものを取り入れる女性もいるらしですが、私がしたいのはそこら辺を歩いてるお兄さんやおじさんと同じ格好です)

だから私は横目でチラチラとメンズコーナーを覗いながら、居心地の悪いレディースコーナーで、できるだけ不快感の少ない、できるだけあちらに近いレディースものを選びます。私はそうやって、男であることに目をそむけながら、できるだけ女とも距離を置こうとしてしまうのです。

成人式には行けませんでした。だって、振り袖なんてたとえ家族を殺すと脅されたって恥ずかしくて着れないから。

結婚はしたくありません。だって、相手から女であることを求められてしまうから。私はそれに応えることができません。それはひたすらに、相手を不幸にするだけです。(もちろんウエディングドレスなんて着るくらいなら首を吊ります)

どうして私の心は女ではないのだろう?

もっと、当たり前に女として生きてみたかった。

以上が、生まれてくる性別を間違ってしまった男が、これまでどうやって生きてきて、これからどうやって生きていくのかという話のプロローグのようなものです。

次回があるなら、私がこの世に生を受け、自分が男ではないと気づくところまでを綴りたいと思います。

それではお粗末様でした。